YZF-R1の20年 その1

今年でR1生誕20年ということで、
当ブログ的にはやはりレースシーンという
切り口で、R1の歴史を振り返ってみようかなと。

R1が全日本のレースシーンに登場したのは
ちょうど、WSBが750ccから1000ccに切り替わったタイミングで
全日本はスーパーバイクから更に改造範囲を狭めて
ローコストマシン、参戦するための敷居を下げた
ジャパン・スーパーバイクいわゆるJSBを制定してからのことです。

と同時に全日本からワークスチームが消えた時期でも
ありますね。JSBは徹底的にローコスト路線でしたから
創設当初はワークスチームの参戦を禁止していました。
(現在は可能に改定されています)
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ただワークスチームは消えたものの、手を変え、品を変えて
メーカーのバックアップを受けるチームというものは
各メーカー存在していて、ヤマハはYSP&プレストコーポレーションが
かつてのワークス的な位置づけのチーム(規模は小さいけど)
として活動を行うことになります。

当時のライダーはヤマハのファクトリーライダーの中冨選手。
2003年~2005年の3年間JSBヤマハのエースとして走り
最高ランキングは3位でタイトルを獲得することなく
2005年からはWSBへと活動の場を移すことになります。
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2006年、その中冨選手に替わって、同チームに加入したのが
若き日の中須賀克行選手です。
と同時にテストライダーをしていた
吉川和多留監督が就任したのもこの時期です。
ここから10年以上に渡る2人の関係が始まるわけですね。
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当時はホンダはコハラ・レーシングがホンダのファクトリー的な
立ち位置、(画像はDD・BOYS時代のもの)
スズキはヨシムラが、カワサキはチーム・グリーンが
その役割を担っていましたね。
ただし、純然たるファクトリーに比べればかなり規模は小さいものでした。
でも、純然たるプライベーターとの間の差は着実に
広がりつつありました。